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東京地方裁判所 昭和52年(合わ)424号 判決

主文

被告人を懲役一二年に処する。

未決勾留日数中四〇〇日を右刑に算入する。

訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

(犯行に至る経緯等)

被告人は、昭和三七年三月山梨県立日川高等学校を卒業して上京し、都内中央区日本橋の株式会社髙島屋に就職したが二年程で解雇され、その後、山梨県、東京都、静岡県などでキヤバレーやホテルのボーイ、縫製工、製本工など転々と職を変え、昭和五〇年夏ころから東京都新宿区四谷の焼肉店「飛苑」に住込み店員として働いていたが、昭和五〇年一一月末ころ、同都中央区銀座のクラブ「ミニミニ」へ行つた際同クラブでホステスをしていた瀬川とく子(昭和二四年一月一九日生。以下、「瀬川」という。)と知合い、やがて肉体関係を結ぶまでの仲となり、同女が居住していた同都品川区戸越の石川マンシヨンで同棲生活を始めた。その後、被告人は、翌五一年一月無断欠勤を理由に前記「飛苑」を解雇されたため、瀬川の収入で生活する身となり、同年七月ころ同女が同都港区高輪二丁目一番二四号高輪グリーンマンシヨン四〇五号室に転居した後も同所で同様の生活を続けていたが、同年九月ころ、同女と諍いをして同女の許を去り新宿区四谷一丁目八番ホリナカビルの焼肉店「ときわ苑」に勤め、同店の独身寮である同都大田区大森北三丁目四一番五号野尻荘に起居することとなつた。しかし被告人は、瀬川と別れた後も同女に対する未練を捨て切れず、同年一一月末ころからは毎日のように前記高輪グリーンマンシヨンの同女方居室を訪れ宿泊していたが、同年一二月三一日、同女に歯科医師の野村栄一という愛人ができており、同人との間には肉体関係まであることを知り、憤慨して同女との離別を決意した。そして、その後間もなく前記「ときわ苑」に客として来ていた小山内則子と交際を始め、同女を伴つて瀬川が勤めていた同都中央区銀座五丁目四番八号カリオカビル五階のレストランクラブ「東友」を訪れ、瀬川の前で小山内則子との親しげな様子をみせつけたりしていたが、依然として瀬川に対する未練の情を断つことができず、前記野村栄一方を訪ねて同人の妻に会い野村栄一と瀬川の関係を告げ口し、野村栄一にも会つて同人と瀬川の関係を問いただし、瀬川と野村栄一を別れさせようとしたりする一方、瀬川に手紙を出したり電話するなどして同女に近づき同女との仲をも保とうとした。

(罪となるべき事実)

そうした折、被告人は、昭和五二年五月一〇日夜、前記「東友」において、瀬川から「最近店の行き帰りに男の人につけられている。一〇〇万円脅しとられそうになつた。嫌がらせの電話がかかつてきてノイローゼ気味になつている。」などと打明けられ、また同女のやつれた感じから、同女が野村との関係がうまくいかず苦労しているものと考え、同女のことが一層気に懸るようになつたが、同月一八日午前一時三〇分ころ、前記「ときわ苑」での仕事を終え同僚の野口真一、早坂照一と共にタクシーで前記野尻荘付近まで戻つた際、瀬川のもとを訪ねようという気になり、同所で野口らと別れタクシーで前記高輪グリーンマンシヨン四〇五号室の同女方へ赴き、居間のソフアに腰をおろし、同女に対し、「お金や地位のある野村と一緒になつても幸せでないんだな。」「もう一度一緒になつてやり直そう。」等と話したところ、同女から「野村先生とは愛し合つている。あんたに関係ないじやない。よけいなことは言わないで。」等とすげなく言い返されたことに憤慨し、同女の左頬を殴打し、さらに寝室に逃げ込んだ同女の後を追つたが、そのとき寝室のベツドが自分と同棲していたころのものと違い新しくなつていることに気づいて同女と野村との生活が脳裡をかすめ、嫉妬の念を煽られるとともに同女に対する怒りが昂じて逆上し、同日午前三時ないし四時ころ、咄嗟に殺意をもつて、ベツドの上で仰向けになつていた同女の上から馬乗りになつて同女を押えつけ、その頸部を両手で力一杯絞めつけ、よつて、そのころその場で同女を頸部圧迫による窒息により死亡させて殺害したものである。

(証拠の標目)(省略)

(有罪と認定した理由)

一  被害者の屍体発見の経過及び屍体の状況等

証人梅沢荘三郎、同武井和彦、同齊藤銀次郎の公判調書中の各供述部分(以下、証人某の当公判廷における供述及び公判調書中の供述部分並びに証人某に対する当裁判所の尋問調書中の供述部分をいずれも「証人某の供述」という。)、鈴木俊雄、松井昭彦の司法警察員に対する各供述調書、司法警察員作成の実況見分調書(昭和五二年五月二八日付)、司法警察員作成の検証調書、司法警察員作成の検視立会報告書、齊藤銀次郎作成の鑑定書によれば、瀬川は前記高輪グリーンマンシヨン四〇五号室に居住し、前記レストランクラブ「東友」でホステスとして働いていたが、昭和五二年五月一七日午後一一時三〇分ころ勤めを終え、店内で上司や同僚等と雑談した後、翌一八日午前二時前ころ、同店管理部長武井和彦が鎌倉市の自宅へ帰宅するため乗つたタクシーに便乗し、同二時五、六分ころ前記高輪グリーンマンシヨン近くの泉岳寺前路上で下車したが、同日夕方瀬川がいつも出勤してくる時刻を過ぎても出勤せず、何の連絡もないうえ同日午後七時ころ前記「東友」の営業課長鈴木俊雄が同女宅へかけた電話も通じなかつたことから、同九時四〇分ころ、「東友」の支配人梅沢荘三郎が前記高輪グリーンマンシヨン四〇五号室の同女宅を訪れたところ、玄関ドアの新聞受には朝日新聞の同日付朝刊と夕刊が差込まれ、ドアは閉められていたが施錠されておらず、室内に入つてみると、寝室のベツド上で瀬川が死亡しているのを発見したこと、同女の屍体はベツドの上に仰臥位の状態で左顔面を下にし、黄色半袖のネグリジエをまとい、左手掌には一万円札四枚が二つ折にしてはさみ込まれ、下半身は裸でネグリジエの裾が臍部付近までまくりあげられ、臀部下には赤色のタオルが、頭部下には男物パジヤマのズボンが、それぞれ二つ折にして敷かれており、屍体の上には毛布と上掛布団が顔面を覆うように掛けられ、頭部付近には男物パジヤマの上衣が無造作に置かれていたこと、同女の屍体頸部には、右側頸部から左方に向い前頸部ほぼ中央に至る幅一・三ないし一・六センチメートルの圧迫痕と認められる一条の痕跡があり、また前頸部右側に二個の、右側頸部下半部に一個の小表皮剥脱があつて、解剖の結果甲状軟骨左上角が骨折しており、同女の死因は頸部圧迫による窒息死であり、死後、解剖着手時(同月一九日午前一一時五分)までに約二五ないし三〇時間内外経過したものと推定される旨の鑑定結果が得られたこと、右四〇五号室内は物色された様子はなく、また同女が何者かと争つた形跡もみうけられなかつたが、同室の浴室入口南西角床面に女性用パンテイ一枚が脱ぎ捨られていたこと、以上の各事実を認めることができる。そして、右被害状況等に照らすと、何者かが同月一八日午前二時過ぎころから同一〇時ころまでの間四〇五号室で被害者を殺害したことが明らかである。そして、右室内の状況や屍体に抵抗痕がないこと等からみて、犯人は深夜以降の時刻に瀬川から室内に招き入れられ同女から警戒を持たれていなかつた者と認められ、しかも瀬川の素行からして同女が行きずりの男を連込むことは考えられないばかりか、犯人は、瀬川の屍体に、同女が売春にからむ争いにより殺害されたもののように装つた偽装工作をなし、ことさら行きずりの者の犯行に見せかけようとしていることが明らかであつて、このような諸点からみると、本件は被害者と親密な関係にある者の犯行と考えるのが合理的である。そして、被告人が瀬川と同棲生活まで送つた仲であることは、判示認定のとおりである。

ところで、被告人は捜査段階で、当初本件犯行を否定していたが、その後自白し、また否認に転じ再度自白するなど種々その供述内容を変遷させたうえ、最終的には判示認定事実に符合する自白をしたこと、しかしながら、当公判廷においては終始本件犯行を否認していることが明らかである。そして、本件において、まず留意を要するのは、後述するように、任意捜査の段階における被告人の言動に犯人であることを窺わせるものが二、三あるとはいえ、被告人の右捜査段階における自白をはなれ犯行と被告人との結びつきを示す客観的証拠は乏しいということである。すなわち、鑑識課長作成の指紋等確認通知書、証人渡部達郎、同山本達雄の各供述によれば、被害者方居間の本立て二段目にあったカトレアテイツシユペーパーに被告人の左手掌紋が残つていたことが認められ、証人渡部達郎は、右掌紋はまだ新しいものであり、同じ材質での実験結果によると普通は七日間位で消失し長く残つているとしても大体三〇日ないし三五日位のものであると述べ、もしそのとおりだとすると、昭和五二年に入つてからは全く瀬川方を訪ねたことがないとの被告人の公判廷の主張はその根拠を失い、被告人が犯人であることの有力な手がかりを提供することになるが、検察官による釈明によれば右渡部供述を裏付けるに足りる鑑定書ないし実験結果書は作成されていないということであり、そうすると、右掌紋は被告人が瀬川と同棲していた当時或は頻繁に同女を訪ねていた当時のものである可能性を全く否定することはできないから、右渡部供述をとつて本件当日被告人が被害者方を訪れたことを証明する証拠とすることはできない。また、証人佐倉正徳の供述によれば、同人は犯行当日の午前一時一五分過ぎから同三〇分ころの間に前記野尻荘に近い大森北界隈で被告人に似た男性を乗車させ犯行場所近辺の泉岳寺付近で下車させた旨供述するが、その供述を仔細に検討するならば、これをもつてその男性が被告人であつたと断定することは困難である。このように、いわば決め手と目すべき客観的証拠ないし情況証拠に乏しい以上、本件において被告人を有罪と認定しうるか否かについては、被告人の捜査当時の自白の任意性及び信用性をいかに判断するかということがきわめて重要であるといわなければならない。そこで、以下にこの点について順次慎重に検討を加えることとする。

二  自白の任意性、信用性についての判断

(一)  被告人に対する捜査の経過等

まず、前述したとおり、被告人の本件犯行についての捜査当時の供述には種々変遷があるので、被告人に対する捜査の経過と被告人の供述の内容について考察する。

証人渡部達郎、同館作美、同外山博司、同山本達雄の各供述によれば、以下の事実を認めることができる。すなわち前記のとおり、昭和五二年五月一九日午後九時四〇分ころ「東友」の支配人梅沢荘三郎によつて高輪グリーンマンシヨン四〇五号室の寝室のベツド上で瀬川が殺害されているのが発見されたことにより、ただちに捜査が開始され、警視庁捜査一課強行犯二係を中心として捜査本部が高輪警察署に設置されたが、前記被害状況等から本件は被害者と面識のある者が犯人であるとの見透しを立て被害者の生前の交友関係を中心に捜査がすすめられ、かつて被害者と同棲したことのある被告人もその対象になつた。ところが、被告人は、同月二〇日本件捜査本部の高輪警察署に出頭し、捜査官に対し、同月一八日午前三時ころは前記野尻荘の近くのスナツク「キンコウ」で食事をしていた旨のアリバイを主張したが、その後の捜査の結果、被告人が「キンコウ」で食事をしたのは右一八日ではなく翌一九日の午前二時か同三時ころであつたことが判明し、右被告人のアリバイの主張が虚偽であることが明らかとなり、同年六月七日被告人を有力容疑者として任意同行を求め、同日被告人に対しポリグラフ検査を実施し、「キンコウ」で食事をしたのは同年五月一九日午前三時ころではないかと追及したところ、被告人は、前記アリバイの主張を撤回し、本件犯行を自白し、自ら「答申書」と題する犯行を認める書面を作成し、その後ひきつづき同年六月一一日まで取調がなされたが、その間被告人は右自白は週刊誌等の記事を読んでいたのでそのとおり供述したものであると主張して犯行を否認し、アリバイについては新たに前記野尻荘で寝ていたと述べたが、右アリバイの真偽について追及されるやこれを撤回して自白したが、その後さらに犯行を否認し野尻荘で寝ていた旨のアリバイの主張を繰り返した。そこで、捜査本部では、同年六月一一日、被告人の弁解の当否及びアリバイの成否を検討することとして被告人の取調を一旦中断し、その後各種週刊誌の記事の内容や右アリバイの裏付等を検討した結果、被告人の供述内容には週刊誌の記事には書かれておらず後記(三)のとおり真犯人であることを推測させる事実が述べられており、また被告人のアリバイの主張についても虚偽の疑いが生じ、さらに犯行前の五月一八日午前一時半ころ、被告人らしい男を高輪グリーンマンシヨンの近くで降したというタクシーの運転手佐倉正徳が現われたことから、被告人を本件の犯人と判断し、同年八月二三日被告人を本件殺人の容疑で逮捕した。被告人は、否認をつづけ、同月二四日には勾留されひきつづき身柄を拘束されたまま取調をうけたが、同月二六日午後に至り自白を始め、以後一貫して自白をつづけ、同年九月一二日起訴されるに至つたが、当公判廷においては、本件当日は野尻荘で寝ていたとの前記アリバイを主張し犯行を否認しているものである。

(二)  自白の任意性について

弁護人らは、被告人の自白は捜査官の暴行、脅迫、誘導或は長時間にわたる取調により得られたもので任意性を欠き証拠能力を有しない旨主張する。

よつて検討すると、証人渡部達郎、同館作美、同外山博司、同山本達雄の各供述によれば、捜査官は、本件が重大事犯であり物証等客観的証拠に乏しい事件であるため、被告人の捜査段階における供述が重要な意味をもつことを十分意識して、その任意性に疑いをもたせるような取調方法はとらないよう留意のうえ、あくまで被告人の自発的な供述により自白を得るという方針をとつたものであり、しかも、被告人が自白を維持しつづけていた捜査の最終段階においてもこのような方針をもつて臨んでいたこと、特に、六月七日から同月一一日までの任意取調に際しては、捜査官は、被告人の供述するがままの弁解を聞いたうえその内容を検討して裏付け捜査をなし、被告人が一旦自供するに至つたあとにおいても、捜査官が主観を押しつけたり、ただちに強制捜査に踏切ることはせずに被告人の取調を打ち切り、自白の真偽を確かめるための裏付捜査をするなど極めて慎重を期していたこと(なお、弁護人らは、六月七日から同月一一日までの間の被告人の取調は、取調終了後も帰宅することを許されず警察の用意した宿泊所やホテルに泊めてその監視の下におき、被告人の身柄を拘束して行なつたもので任意捜査に名を仮りた強制捜査であり違法のものである旨主張するが、前掲証人渡部達郎の供述によれば、右被告人の取調期間中の宿泊所やホテルへの宿泊は、被告人の希望により警察が斡旋したものと認められ、このことは被告人が作成した昭和五二年六月七日付答申書と題する書面によつても明らかであり、警察がその宿泊料金の一部を支払い、かつ被告人の身辺に警察官がついていたことなどその妥当性につき問題となりうる点が存するとはいえ、それが被告人の身柄を実質的に拘束して自白をさせようとの意図に基づくものとは認められず、違法な捜査であるとはいえない。)、被告人は昭和五二年六月七日初めて本件犯行を自白したものであるが、それまでの事情聴取の段階で述べていたアリバイの主張がその後の捜査によつて虚偽であることが明らかになり、捜査官の取調で右の点を追及されて犯行を自白したものであり、同年八月二三日逮捕されてからも数日間否認していたが、捜査官が被告人の良心に訴えて反省を促すとともに、供述の不合理な点を指摘してあくまで真実を述べるよう説得した結果、同月二六日に至り自供を始め、以後起訴まで一貫して自白したこと、捜査官は、被告人が裏付けのない虚偽のアリバイを主張したり現場の状況等客観的事実に反する供述をした場合にはこれを追及し長時間にわたり厳しい口調で取調したことがうかがわれるが、結局、動かしがたい捜査の結果をつきつけて被告人に真相を糺したものであつて、被告人の供述の任意性を疑わせるような利益誘導や脅迫、暴行等を加えた事実はないこと(なお、被告人は、当公判廷において、被告人が犯行を否認すると、捜査官から、被告人の頭髪をつかんでひきまわし、壁に頭をぶつつけ、被告人の襟をつかみ、肩をゆすり、椅子をふりあげる等の暴行を加えられた旨供述しているが、前掲各証人の供述に照らし信用できない。)、被告人は、捜査段階において供述の内容を種々変転させているが、これは捜査官により無理な取調べがなされたというよりはむしろ被告人において様々に供述を変え、前述したような捜査方針からそれがそのまま調書に記載されるに至つたものと考えられること等の諸事実が認められるのであり、その他弁護人らの主張するような違法不当な取調があつたことを疑わしめるような事情は認められず、被告人の検察官及び司法警察員に対する自白は、いずれも任意になされたものというべきである。

(三)  自白の信用性について

前記(一)で述べたとおり、被告人の本件犯行についての供述は変転しているが、単に自白と否認という供述の変転があるだけでなく、各自白の具体的内容においても、犯行の具体的態様、犯行現場の状況等について供述の変転があり、このことは被告人の自白の信用性に一応疑問を投げかけるものといわざるを得ないし、また、被告人は判示認定のとおり被害者と本件現場である被害者の居室で同棲したことのある者であつたため被害者に関する事柄や現場の事情に明るい立場にあり、さらに、被告人の当公判廷における供述、証人野口真一、同早坂照一、同大月昇、同大橋とも子の各供述、戸田哲夫の検察官に対する供述調書によれば、被告人は、捜査官より取調をうける前から本件事件に関心をもち、本件に関する新聞及び雑誌の記事やテレビ等の報道により現場の状況、被害者の屍体の状態等について相当の予備知識を得ていたことが認められ、これらの経験にもとづいて捜査官に対し供述をしたことも考えられるので、被告人の自白の信用性を肯認するにあたつては特に慎重な検討をなすことを要するものと考えられるが、以下に述べる諸点を考え合せると、被告人が判示のとおり本件犯行をなしたことについての捜査段階における一連の自白調書の内容は、十分信用できるものと認められる。

(1) まず、前記(二)で述べたとおり、捜査官は、捜査の最終段階にいたるまで本件が犯人を特定する客観的証拠に乏しい事案であることに鑑み、被告人の捜査段階における供述が重要な意味をもつことを十分意識し、特に捜査官による誘導の疑いの生ずることのないよう慎重に配慮し、被告人の良心に訴えて反省を促すとともに客観的状況に反する等供述の不合理な点について捜査官の主観を押しつけたり、捜査官においてすでに把握していた現場の写真等を示したり、説明を加えることを避け、あくまで被告人の自発的な供述を待つという態度をとつたものである。そして、被告人は、昭和五二年六月七日初めて犯行を自白したものであり、また身柄を拘束され数日間否認していたところ同年八月二六日犯行を自白するに至つたものであるが、その契機はアリバイの主張が捜査官によつて全くの虚偽であることが明らかにされ、或は捜査官により被告人の供述の不合理な点が指摘され真実を述べるよう説得された結果、いわば観念した心の状態で犯行を認めたものであり、このような経緯ないし状況の下に自白が得られ、かつ逮捕後の自白についてはそれが最後まで維持されているということは、そのこと自体自白の信用性を強めるものである。なお、被告人の任意取調段階での供述が自白と否認を繰り返していることは前述したとおりであるけれども、その段階では捜査資料も乏しく、捜査官としては、強制捜査をさしひかえ、被告人の供述するがままを聞きその真偽を確認するという態度をとつていたことを考えると、このことは必ずしも被告人の自白調書(特に、逮捕後作成されたもの)の信用性を弱めるものとは考えられない。

(2) 被告人の自白調書(なお、司法警察員作成の昭和五二年九月五日付実況見分調書中の被告人の指示説明をも参照。)の内容は、犯行現場の状況、犯行態様、犯行後の犯跡隠蔽の状況等にわたり極めて詳細かつ具体的であるのみならず、多くの点において前掲各証拠から認められる客観的状況と符合し(例えば、殺害方法について被告人は任意捜査の当初から殺害者の首を両手で絞めたと一貫して供述し、前掲齊藤銀次郎作成の鑑定書記載の内容と符合し、また殺害後ベツド上で瀬川の屍体を移動させ偽装工作をなしたとする点も、実況見分調書等で明らかな現場の客観的状況と良く符合する。さらに、瀬川方のべツドが、被告人が同女と別れた以降に持ち込まれた新しいものであつたとする点は、山本久方の司法警察員に対する供述調書によつて認められる、同ベツドが昭和五三年一月五日購入され同月一二日瀬川方へ搬入された事実に符合する。)、またかつて同棲したまでの仲である瀬川に対する心情が良く現われている部分もあり(例えば、瀬川方のべツドが新しくなつているのを見て逆上したとする点とか殺害後瀬川のパンテイを脱がせその尻の下にタオルを敷いた動機に関する点)、このような自白が捜査官の誘導に基づかずになされていることからみて、右自白の信用性は極めて高いというべきである。被告人は、公判廷において、捜査官から誘導はされなかつたが、時に暗示を受けその顔色をうかがいながら自己の想像を語つた旨述べているけれども、このような自白が暗示や想像によつてなされたと考えることは困難であり、むしろ犯人なればこそその内容を語り得たとの印象を強く抱かせるものである。なお、任意取調の段階での自白と逮捕後の自白とでは、被害者が立つていた状態で首を絞めたのかあるいはべツドの上で横になつていた状態でそれをなしたのかという重要な点で相違しており、また逮捕後の自白だけについても、部屋の家具の配置等についてくい違いがあることは、弁護人の指摘するとおりであるけれども、まず前者の点については、任意取調の段階での自白は、前述したように、被告人の供述するがままを調書にしたものであつて、その際細部についてのきめ細かな質問・供述はなされなかつたものと認められ、このような自白と、その後期間を置き身柄拘束下の取調によつて得られた詳細な自白との間に部分的に相違があることをもつて自白調書全体の信用性を否定することは相当でないというべきである(ちなみに、殺害の態様等に関しては、判示のとおり、逮捕後の自白が事実に合致するものと認められる。)。また後者の点は、記憶違い等もありうる事項に関するものであつて、自白の信用性を否定するほど重大なものとは認められず、むしろ、逮捕後の自白は、このようなくい違いはあるけれども、全体として矛盾する点は少なく、一貫性を保つているものというべきである。

(3) さらに、被告人の自白の信用性を高めるものとして、被告人については本件当日被害者方を訪れ犯行を行なつたことを推測させる次のような言動が存する。

〈1〉 まず、前記のとおり、被害者は黄色のネグリジエを着て殺害されていたのであるが、前掲渡部達郎の供述によれば、被告人は、昭和五二年六月七日、捜査官の取調に先立ち、したがつて、捜査官による暗示、誘導等が全く考えられない段階でポリグラフ検査をうけた際、その質問事項に「被害者が殺害されたとき着ていたネグリジエの色が何色であつたか。」との質問があり、これについて「はい」あるいは「いいえ」と答えるように指示されていたところ、右質問をうけるや「黄色いネグリジエです。」と答えたことが認められる。しかるに、被告人が判示のとおり昭和五一年一二月三一日本件現場である被害者方で被害者と別れて以後本件当日まで被害者方を訪れたことがないことについては、被告人自身捜査及び公判を通じて一貫して述べるところであり、証拠上もこれに疑いを持たせるものはないが、証人桐生逸子の供述、司法警察員作成の「ネグリジエについて」と題する捜査報告書によれば、右ネグリジエは昭和五二年四月一九日以降同人が被害者に売却したものであり、それ以前に被害者が黄色いネグリジエを持つていた形跡もなく(司法警察員池谷豊明外一名作成の「被害者方の黄色のネグリジエについて」と題する捜査報告書)、また本件事件当時被害者が身につけていたネグリジエの色が報道された形跡もないことを考えると、被告人が右のとおり被害者が殺害されていたとき着ていたネグリジエの色を供述したことは、被告人が本件当日被害者方を訪れなければ知り得ない事実を言葉にしたものというべきである。また、前記のとおり、被害者が着用していたパンテイは被害者方の風呂場に置かれていたものであるが、前掲渡部達郎の供述によれば、被告人は前記ポリグラフ検査をうけた際、右パンテイのあつた位置を質問され、「週刊誌を読んだから」あるいは「新潮社の戸田記者から聞いたから」知つているなどと答えたことが認められる。しかし、前掲渡部達郎の供述及び戸田哲夫の検察官に対する供述調書によれば、被害者が殺害されたとき同女が着用していたパンテイの位置は報道されておらず、戸田記者もこの点につき被告人に話したことはなかつたものと認められるから、右の点に関する被告人の発言も、被告人が犯人であることを推測させるものである。

〈2〉 前記のとおり、殺害された被害者の臀部の下には赤色のタオルが敷かれていたが、前掲渡部達郎の供述によれば、被告人が昭和五二年六月八日の取調の際、被害者の「尻の下に赤いタオルを敷いた。」ともらしたので、捜査官が右タオルの話を始めたところ、被告人は「タオルの色については週刊新潮の戸田記者に聞いた話である。」と返答しその場をつくろつたことが認められる。しかし、戸田哲夫の検察官に対する供述調書によれば、同人が被告人に右タオルの色について話をした事実は認められないのであつて、被告人はこの点でも犯人でなければ知り得ない事実を供述したものというべきである。

〈3〉 前記二(一)のとおり、被告人は、本件事件発生の二日後の昭和五二年五月二〇日午前、事件の捜査本部が設置された警視庁高輪警察署に出頭し、同本部の捜査官に対し五月一八日の午前三時ころ野尻荘近くの東京都大田区大森北二丁目九番一一号所在スナツク「キンコー」で食事をしていた旨アリバイの主張をしたものであるが、その後の捜査の結果、被告人が右「キンコー」で食事をしたのは同月一九日の午前二時ころから同三時ころの間であつたことが明らかとなり(証人大塚イチ子の供述、押収してある伝票一枚(一八日付のもの、同号の3)参照。)、被告人は右の点を追及されるや日付の思い違いであつたと弁解したものである。しかしながら、被告人がたとえ当日午後から翌日午前にかけて勤務する職業に就いているからといつて、わずか二日前の自己の行動についての日時を取違えるということは考えられず(次に述べるように、被告人は右警察への出頭の前日においても、本件当日の自己の行動について発言しているのである。)、自ら警察署まで赴きことさら翌一九日の行動を一八日の行動の如く説明したものと言わざるをえず、しかも、証人野口真一の供述及び同人の検察官に対する供述調書によれば、被告人は、右警察への出頭の前日、判示のように本件当日帰途を共にした同僚の野口真一及び早坂照一に対し、被告人がタクシーを下車後「キンコー」に食事に行つたと思い込ませるような発言をしていることが明らかであり、このような虚偽のアリバイ工作をなしていることは、もし被告人が犯人でないとするならば、理解に苦しむ行動といわなければならない。むしろ、この行動は、被告人が後に捜査官に供述しているとおり、自己に嫌疑がかけられることを十分に予期したうえ、犯人であるが故に当然知つている犯行時刻に合わせて自己の顔を人目にさらさせ、後にそれが事件発生の日であるとしてアリバイを主張するという一連の計画のもとになされたものとみてはじめて無理なく理解できるのであり、この点も被告人が犯人であることを推測させる根拠となるものである。

以上の各検討の結果によれば、被告人が本件犯行をなした犯人であつて判示の犯行をなしたことの捜査段階における自供調書の内容は、いずれも被告人が自発的に述べたものであり客観的事実と良く符合するうえ、具体性に富みかつ詳細であつて特に問題とすべき矛盾もないから、十分信用できるものというべきである。

三  アリバイについての供述とその不成立

弁護人は、被告人は本件当日の犯行時刻ころには犯行現場である被害者方から離れた野尻荘の自室で就寝していたという明白なアリバイがある旨主張する。

しかしながら、前述したとおり、被告人は本件当日のアリバイにつき当初はスナツク「キンコー」で食事していたと主張していたところその後右弁護人主張のアリバイに変転したものであり、それ自体信用性に疑問を投げかけるのみならず、前掲大月昇、野口真一、早坂照一の各供述及び野口真一の検察官に対する供述調書によれば、五月一八日午前一時三〇分ころから同午前四時三〇分ころまでの間被告人は野尻荘にいなかつたことが明らかである。すなわち、野口は「被告人と野口、早坂の三名は五月一八日午前零時三〇分か一時ころ仕事を終えタクシーで野尻荘へ帰寮し、被告人一人が『食事をしてくる』と言つて寮近くの路上で別れた。野口、早坂の二名は寮へ入り大月の指導のもとに調理師試験の受験勉強をしていた。午前二時ころ四谷店の大野純夫から遊びに来て欲しいとの勧誘の電話があり一時間位三名で交互に話したあと始発電車運転開始後、野口、早坂の両名が大野の許を訪れる約束をした。午前四時二〇分ころ出掛ける準備をしていたところ、階段を昇る足音が聞え隣室に入る様子があり、やがて被告人が下着姿で野口らの部屋に現われた。」と述べ(日時の点は、公判供述では必ずしも明瞭でないが、検察官調書における供述は明確であり、信用できると認められる。)、早坂は日時の点は明確でないとはいえ右野口の供述を裏付ける供述をしており、大月も「五月一七日は早番で、午後一〇時三〇分ころ仕事を終えて野尻荘に帰つていたところ、翌一八日午前一時三〇分ころ野口、早坂の両名が帰寮し、調理師試験の受験勉強を始めたのでその手伝をした。午前三時過ぎころ自室にノートをとりに戻つたがその際被告人は部屋にいなかつた。大野から電話がきて、野口、早坂の両名は右大野の許へ行くことになり、準備をして出掛けるころの午前四時三〇分ころ、階段を昇る足音が聞え間もなく被告人が下着姿で現われた。」と述べ、大月、野口の両名は、このようなことがあつた後出勤した日は美容師の宴会があつたという結びつきにより日時を記憶していると述べるなどその内容が具体的かつ詳細であつて十分信用できるものである(なお、司法警察員作成の昭和五二年八月二五日付実況見分調書によれば、野尻荘は木造二階建で幅六七センチメートルの階段をはさんで野口らの部屋と被告人らの部屋が向い合い、入口の戸を閉めきつた状態でも階段を昇降する足音や隣室の引戸を開閉する音は十分聞える状況であることが認められ、被告人が実際に帰寮したとすれば右大月ら三名がこれに気づかないということは考えられない。)。そうすると、弁護人の主張する被告人のアリバイは成立しないといわざるをえない。

四  結論

以上検討したとおり、本件については判示認定の事実につき真実性の高い詳細な内容をもつ被告人の自白があり、かつこの自白の真実性を担保するに足りる補強証拠も存在し、他方、被告人にはアリバイが成立しないから、本件犯行が余人にあらず被告人によつてなされたことの証明は十分である。

(法令の適用)

被告人の判示所為は刑法一九九条に該当するところ、所定刑中有期懲役刑を選択し、その刑期の範囲内で被告人を懲役一二年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中四〇〇日を右刑に算入し、訴訟費用は刑事訴訟法一八一条一項本文により全部被告人の負担とする。

(量刑の理由)

本件は、被告人が、判示認定のとおり、かつて同棲までした仲である被害者に対する未練の情を断ち切れず、同女の身を案じて深夜同女方を訪れ話しを交わすうち自分の意のままにならない同女の態度に憤慨し、その首を絞めて殺害したというものであつて、被告人を信頼し気を許していた同女の生命を即死に近い状態で奪つた行為は冷酷無残というほかなく、その動機においても同情すべき余地はない。

また、被告人は、殺害後自己の犯行であることを隠蔽するため屍体や現場に手の込んだ偽装工作を施し、指紋をふきとり、さらにアリバイ工作までしたうえ捜査本部に自ら出頭して捜査官に対し虚偽のアリバイを主張したものであつて、その間自己の行為に対する反省の念は認められない。

一方、被害者は、結婚に失敗し二児を相手に委ねて離婚したあと、ホステスとして真面目に働いていた未だ二八歳の女性であつたが、かつて同棲したこともある被告人に生命を奪われるというようなことは夢想だにしていなかつたものと認められ、同女の遺族も被告人に厳罰を求めておりその受けた悲嘆の念は同情に耐えないものがある。

以上のとおり、被告人の刑事責任は極めて重大であつて、本件が衝動的になされた偶発的犯行というべきものであり、また被告人にはこれまで道路交通法違反による罰金刑のほか前科がないこと等有利な事情を考慮しても主文掲記の刑は免れないところである(求刑懲役一三年)。

よつて、主文のとおり判決する。

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